時間意識の中の生と死―2017年「開発とNGO」研究会第3回

8/6(日)に、2017年度「開発とNGO」研究会の第3回を『時間の比較社会学』をテキストに開催しました。今回は、会場をAPEX東京事務所に移しての開催となりましたが、この研究会自体が実はもともと事務所でやっていたものなので、ある意味でホームカミング的な雰囲気の中、活発な議論が交わされました。(写真はテキスト新書版の表紙にある「太陽の石」。今回のコメンテーターの方が、6月にちょうどメキシコを訪れたとのことで撮影してきてくださいました)
今回の著書は、近代社会における虚無感や人間疎外の淵源ともなっている近代的な時間意識の由来を比較社会学的な手法で解き明かし、そこからの解放
の道を探るものでした。
見田は、近代的な時間感覚の発生を、自然からの人間の疎外と、共同態からの個の疎外の二つの要因から論じています。近代社会では、時間が直線的なものとして捉え、無限化する未来を志向する限り、その先に必ず待っている「死」の恐怖からは逃れらないとして、その恐怖からの解放されるためには、今現在を充足的に生きること、そのためには共時性の感覚を解き放つことしかない、と述べています。
研究会では、参加者の方にコメントをお願いしていますが、今回いただいた2つのコメントのいずれにおいても、冒頭にコメンテーター自身の時間意識(=死への意識)についての経験が書かれていたこと、そしてそれぞれで持たれていた時間意識が異なっていたことが印象的でした。

本来、「どう生きるか」というのは「どう死ぬか」と表裏一体であるはずですが、私たちが生きている近代社会の中では、「死」はできるだけ遠くに置かれていて、なるべく目につかないようにされています。量的な時間に囚われて、無限化する未来への思考というのも、「死」を忘れるための防衛手段のようにさえ感じられます。そのような死の恐怖から逃げようとする力が、結果として現在の資本主義的なシステムをより強化していく方向に働いているのではないかと思いました。
ちなみに、インドネシアでは、お祈りの中牛や羊の屠殺を子どもから大人までが一部始終見守る「犠牲祭」というお祭りがあります。自然と調和的な社会をこれから目指すうえで、一人一人が「死」と対峙する場を日本はこれからどのように設定していくべきか、考えるべきなのかもしれません。
さて、次回の研究会は9月3日(水)に、『自我の起源』をテキストとして開催いたします。解放への道を探る上でのもう一つの問題系を論じる著作となっていますので、どうぞふるってご参加ください。(塩原)
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